禅との縁を結ぶ「ZAFU」。

2020.09.19

en・nichiでは令和2年9月11日より、『ZAFU(坐蒲)』の販売を開始しました。
ZAFUは坐禅をするときに使う座布団のこと。みなさんが普段の暮らしの中で、自己に向き合う時間を持つときにぜひ使っていただきたい佛具です。
そこで今回の記事では禅や坐禅についてご紹介するために、岩手県奥州市にある曹洞宗の古刹・大梅拈華山 圓通 正法寺 山主の盛田 正孝 老師にお話を伺いました。そのインタビューの様子をお届けします。

 

 

坐禅をして、静かに心の中に降りていく

(盛田老師)多くの方はきっとこれまで、自分がわからなくなって、悩んだり、苦しんだりしたことがあると思います。その原因がどこにあるかがわかっていないと、どんなに勉強をして、経験を積み重ねても、やればやるだけ迷いの術中に入っていってしまう。そういう中では、引き算の人生の大切さをきちんと学ばなければなりません。自分がもっとさらなる高みに登りたいと思うのであれば、進むのではなく、足を止めることが重要。そこで「坐禅」をして、静かに自分の心の中に降りていくことが必要となるのです。

 

禅の中ではそれを「退歩」と言います。これは後ろに下がるという意味ではなく、留まって今の有り様をきちんと見据えていく大切さを説く言葉です。外から身につけたものは偽物で、本物は自分の中にあるというのが禅の考え。真実を求めるのであれば、外ではなく、自分の中に向いていく必要があるのです。

 

頭の中で考え、物事を判断する「分別」という言葉がありますよね。世間では「あの人は無分別な人だ」と言うと悪い意味になってしまいますが、仏教では「無分別」が最高であるという教えがあります。人は必ず好き嫌いや善悪の判断をしてしまいますが、その分別が悩みや苦しみの原因を作っている。社会生活をするためにはもちろん必要なことですが、真実の有り様は是非善悪を超えているのです。好き嫌いや善悪の判断をするからそこに問題が起きていくのです。

 

私たちには、目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わって、手で触れる、「五感」というものがありますよね。また「六根」になるとそこに「意識」が入ってくる。人を作っているのはその五感、六根でしかないのです。

 

私たちの中では「目に、耳に、教えてもらいなさい、学びなさい」という言葉を使うことがあります。それはどういうことなのかというと、例えば何かをぱっと見た時にそこには善も悪も好きも嫌いもないですよね。目は好きだとか嫌いだとか言わない。そこに分別が入っていない、これが「真実の有り様」なのです。だけど人はそこにすぐ分別が入る。何かを見た後に「これは良くない」、「あれは嫌いだ」とか悩みの種を作っていくのです。問題なのは「意識」なんですよ。心、意識は考えるようにできているから、そこが入ると必ず是非善悪をつけて悩んだり、苦しんだり、怒ったりするのです。

 

だからその意識をなんとかしないといけない。また別の言い方をするのであれば、生まれたばかりの頃、分別がない赤ちゃんの頃のように、戻さないといけないのです。“それ”を“坐禅”を通して行う。だから坐禅では「何もしない」と言うのです。聞こえてきたら聞こえたまま、見えたら見えたまま、そのままにしておく。それが「人間本来の有り様」なのです。

 

 

今、ここで、わたしが

(盛田老師)禅では、「今、ここで、わたしが」という考えを大切にしています。むしろこれ以外はない。「今、ここで、自分が生きる」そこに集約されているのです。

 

縦が時間、横が空間のグラフがあるとしたら、その線が交わる一点が「今」になる。この今を生きなさい、と禅は説いています。他の言い方をするなら、自分の体のあるところを今と言うのです。他の場所で今を探しても、絶対にない。体の動いているところが常に今なのです。今を外してどこかを生きることなんてできないのですが、それが分別をつけるとできるようになるのです。頭で考えると今を離れられる。「昨日自分があそこにいた」とか「明日はどこに行く」とか、妄想して非現実点に訪れることができる。

 

そうした中で、今をきちんと捉えられるかどうか、という問題を禅が問うのです、「今とは何か」。この問題のために、みなが一生懸命坐禅をしているのです。今を知ることで、本来の自分のあり方を知る。坐禅を通して、そこを明らかにしていくのです。

 

仏教では、分別を迷いと言います。だから分別をなくそうとするのは、迷いをなくそうとすることに繋がっている。そこで、無になるために坐禅をします。「無になれ」と言われると、「無にならなければ」となりますが、それではなれるはずがない。なくそうとするとなくせないのです。だからまずは整えようとすることをやめなくてはならない。ですから、「禅を暮らしの中に取り込む」というより、「禅の中に自分が入っていく」のです。禅の教えの通りに生きていく。自分をなくし、任せきって、禅の中に入っていくことが大切です。

 

坐禅

 

禅との縁を結ぶ

(盛田老師)理屈上、坐禅はどこにいてもできる。でも人は条件を整えなかったらできないもの。まずは静かな環境の中でやる、「静中の禅」を極める必要があります。静中の禅が極められたら「動中の禅」もできるようになっていくでしょう。

 

ですから、最初はどのような入り方でもいいと思います。居眠りしてもいいからとりあえず坐蒲の上に坐ってみる、という調子でいい。そうして続けていくうちに、家が静かな時に、ちょっと坐禅をしてみようかという習慣ができていくのかもしれないですしね。そうして、禅との縁を結んで頂けるとありがたいです。

 

[坐禅の作法]

 

 

 

[執筆者プロフィール]

宮本拓海さん

宮本拓海

1994年生まれ。岩手県奥州市出身。

企画・編集・執筆に携わるフリーランスとして活動中。

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